たかが選手の移籍ではあるが、手放す側の企業と受け入れる側の企業の合意が前提。
桑原の社内で『なぜ、走れる選手を放出する?』と言う意見が出て、それがサンツアー側に
伝わり、『社内でもめているなら、受け入れは難しい』『一旦、退職して入社なら検討できるが、
どうなるかわからない』と。
退職しても受け入れてくれるか確定的でない状況では流石に退職は出来ない。
長年憧れ続けたあの白にブルーのサンツアージャージが手に入る寸前だったが、
最後でそれはふたを開けてみないとわからない、リスクのある賭けになってしまった。
そして、悩み抜き出した結論は退職でも、残留でもない第3の選択。
長い間夢見ていた海外での挑戦。
桑原には全ての面でよくしてもらい、本当に自分の私的なものにしかお金が不要な生活を
させて頂いたので、若造の決して多い金額でない給料からでも、海外に行くには十分な
貯金が出来ていた。感謝の気持ちでいっぱいです。
そして、前年位から先行して海外挑戦をしていた現NIPPO監督大門宏氏を頼りに、
’88年1月スイスへ向った。
お金を節約し、大韓航空の南回り。金浦空港からバーレーン、ジェッダと中東の地を回り、
30時間ほどかかり、クローテン国際空港へ。
途中機内から見た紅海と砂漠の風景は人生観が変わるものだったな。
※紅海は周りに流れ込む川がほとんどなく抜群の透明度。周りは砂漠。
借りたマンションはスイスとイタリアの国境が目の前にある立地。
正確には国境ではなく通関の為のトラックターミナルの敷地。
いわゆる中間地帯。
家から5分でDogana(税関)。高速の料金所みたいな感じで、そこを抜けるとイタリア。
●Doganaです。日本にはない感覚。地続きで向こうが外国。
近隣住民は隣町に行く感覚でイタリアへ。
私は怪しいアジア人だから、度々イタリア人職員に止められたけど。
そんな国境の町CHIASSOで私の新たな自転車生活が始まった。