アシストマンに込み上げる感情とは

 

始めは何の音がしてるのか理解できなかった。

ボコボコとも、グリグリともいえる音が腋の下で。

当初はあまり痛みは感じず、痛くても我慢のできる範囲だった。

先週の木曜日の朝練の帰り、信号待ちで痛む脇腹を

ぐっと押したときに、既に骨折していた肋骨が動いたようで

それ以降、激痛がするようになった。

 

土曜日に痛みに我慢できずに整形外科に行った。

もっと早く行けばよかったのだが、肋骨の骨折は発覚しても

コルセットを着用するだけで、特に治療方法がないのを

知っていたから、行っても仕方がないと思い行かなかった。

 

肋骨は内臓と前後にある肋骨が重なってレントゲンでも

相当診断がしづらい。

『うーん、この線がここで切れてるみたいやから、折れてると思う』

『ま、肋骨は1本ぐらい折れてても問題ありません』

『しばらく様子見しましょう』となった。

そして、手ぶらで帰る事に。

 

思った通りだ。やっぱり折れていた。

しかしそれを知ってもどうしようもない。

医者へ行っても、痛みは変わらない。

時間だけが解決してくれる。

 

昨日の話の続き。

合宿の夜に話した話の後編でもある(前編はこちら)

選手心理の変遷を段階を追って考察してみる。

 

チームオーダーなしに試合が行われた場合、

チーム員が逃げれば、集団のチーム員は集団のコントロールをする。

レースの中で、作戦を持ってやっているという感覚は、

自分の為に全力を尽くしている時とは、また違った感覚で

『逃げ切ってくれよ』と思いながらアシストする。

逃げたものが勝てば、”皆で創り上げた勝利”の喜びをチーム員で

共有でき、その満足感は個人だけで得た勝利とは一味違うものだ。

第1段階:チームでの共同作業に喜びと満足感を得る。

 

別の日のレースでも、その次のレースも、更に次のレースも

同じチーム員が逃げる。

実は自分も相当調子を上げていて、このレースは狙っていたが、

先に動かれてしまったので、仕方なくおさえに回る。

逃げが捕まったら、そこからの展開だなと思いレースを運ぶ。

第2段階:チーム員が動くと、自分が動けない違和感と不満。

 

そうして、出るレースごとに、チーム員が逃げるので、

自分は動けない。

そして集団をコントロールしながら芽生える感情はあろうことか、

『ああ、早く捕まってくれないかな』、『ローテがうまく機能して無いな』、

『どんどん回して追えよ!』、『捕まってくれないと、動けないんだよ!』

と、どこのチーム員かわからないような感情が湧く。

第3段階:自分が動けないので、チーム員の失敗を期待する心が芽生える。

 

チーム員の失敗待ちでは、確実性は薄いし、競技者である前に

人間としての問題すらある。

ここでようやく気付く・・・(遅い!)

本来自分のしなければならない事は、動く選手がいるなら、

自分も一緒に動くか、更に言えば先行して動けば良いのだ。

先行すれば、チーム員が後ろを押さえてくれる。

何時もおさえに回っていた選手には皆も喜んで押さえてくれるだろう。

人の失敗を待つのは、人間としてしてはならない事。

ましては、チーム員が相手なら言わずもがなだ。

第4段階:本来選手がしなければならない事に気づく。

他人の失敗を待つのではなく、自ら動かなくてはならない。

 

実は、これは私がスイスでレースを重ねていた時の感情。

行こうかなと思ってて、行かれちゃうと動けないようになる。

脚が余ってると、第3段階の感情がどうしても出てしまう。

自分も趣味を超えた次元でレースに出ているのだから、

結果が欲しい。

 

第4段階を理想としながらも、第3段階の感情が混ざる事は

若干仕方のない所もある。

一生懸命トレーニングをして試合に臨んでいればある意味当然の感情だ。

選手は聖人君子ではなく、もっと泥臭いものだ。

 

選手は自分から行かなければ、おさえに回る可能性のある事を理解し、

レースを組み立てなければならないし、逆に逃げれば、チーム員が後ろで

支えてくれている(負担をかけている)ことを感じ、感謝の心を忘れてはならない。

 

普段の練習で共に汗を流し、涎と嗚咽の中で”脚で語り合う”事を

していれば、レースでもお互い自然なアシストが出来るだろう。

 

結局は、普段の人間関係の積み重ねが大事って事だな。